生きてきた場所

<生きてきた場所>

「結婚?あのお嬢様とか!?」
いきなり急に叫んだ年かさの男の口を私は慌てて塞いだ。
旦那様のお使いの用事があって偶々早く店に来れた為、狭い店内には仕事帰りで薄汚れたなり男達が数人いる。
日の差さない裏通りに面している為、夕方といっても店内は真夜中のように暗い。
バーカウンターの横と、壁の要所についてあるランプだけがぼうと光っている。

「例えばの話だ例えばの。大きな声を出すな。」
慌てて男達の方に目を配りながら小さな声で囁くと、年かさの男はこくこくと首を振った。
手を離すと慌ててジョッキに齧りついてビールをごくごくと煽る。

「それは、なんとも羨ましい話だな。旦那様に目を掛けられたって事か。」
年かさの男の目には羨望が漂っている。
お前は若いからなあ、と言ってふうと息を吐いた。

「それが、そうじゃないんだ。」
「そうじゃないと言ったってお前、そりゃあたしかに婿殿は大変かもしれないが今の暮らしとは段違いだ。」
酒だって飲み放題だ。と言ってまた溜息を吐く。

「違う違う、そうじゃない。違うんだ。旦那様はご存じないんだ。」
がっくりと肩を落とす男に向かって慌てて言いつくろう。
「何がだ?」

「結婚すると言っているのはお嬢様だ。旦那様はご存じないんだ。」
「何?どういうことだ。」

「つまり、お嬢様が私と結婚すると言っている。旦那様はご存じない。」
「すると何か。お前・・・手、出したのか。」

「いやいやいや、出してない出してない。出してないぞ。断じて出してない。」
ぶんぶんと手を振る。そのような軽薄な男と誤解されては堪らない。
「出してないのか。」
疑わしい目つきで年かさの男が睨んでくる。いつの間にか婆まで寄ってきている。

「いや、出された事はあるが、それは過ちみたいなものだ。私は出してない。絶対に出してないぞ。」

「出したのか、出してないのかどっちなんだ。正直に言え。」
ダン。とカウンターを叩かれる。

「だから出してない。断じて出してない。手を繋いだ事くらいはあるが、その位だ。」
それにそれだってお嬢様から繋いできたのだ。と言うと年かさの男と婆は白けた目で私を眺め回した。

「それだけじゃないね。口を吸って抱きしめて気の利いた言葉くらい言ったんだろう?それでころっと騙されたんだ。
 そうに違いない。正直に言いなさい。」

「うるさいぞ婆。何処で見て、いやいや違うぞ、大体がお嬢様からで私は決して、いやいや違うんだ。」
言いよどむと、年かさの男ははあ、と又溜息を吐いた。
ついでに婆まで溜息を吐いている。
婆、なんか魚でも焼いてくれ。と言ってから年かさの男は私の方に向き直った。

「それはお前、大変な事だぞ。お嬢様には許婚なんかがいるだろう。」
「ああ、遠縁の財閥の子息だかと言うのがいる。なんでも生まれた直後にもう許婚だったとか。」

「そうだろう。そういうもんだ。それでのこのこと結婚させてくれなんぞと言った日にはお前、旦那に殺されるぞ。」
「私もそう思う。」
実際に殺される事は無いだろうが、ただで済まない事は確かだ。
半殺しの目に遭って屋敷から叩き出される事は間違いない。

「何とかならんのか。」
「お嬢様が次のお誕生日の日に皆にお披露目すると息巻いている。止まらないな。あれは。」

「誕生日っていつだ。」

「来週。」
ああ、と言って年かさの男は頭を抱えた。鯵の干物を焼きながら婆まで頭を抱えている。

「お嬢様に何とか思いとどまって頂く方法は無いのかとそれを相談したいんだがな。」
やっと本題に入れた、と身を乗り出すと、年かさの男は無理無理、と素気無く手を振った。
「口止めか?そんなもの無駄だ。そんなものはな。どっちにしろばれる。」
「ばれるか。」
「ばれるな。しかもそういうのに限って思いがけない最悪の場所からばれる。」
ああ、といって今度は私の方が頭を抱える。
そう言えば小間使いの少女とこの前すれ違った時に、
こましゃっくれた顔で最近お嬢様と仲が宜しいんですのねなどと言ってきた。
いかにもそういうところから漏れそうだ。

しばらく腕を組んで悩んだ後、年かさの男は重々しく口を開いた。
「逃げるしかないな。殺されるよりましだろう。」

「一人でか?」
「お嬢様と逃げてどうする。お前人攫いで追われる気か?」
「冗談じゃない。」
ぶんぶんと首を振る。逃げ切れるわけが無い。

と、そこに焼きあがった鯵の干物を盆に載せた婆が戻ってきた。
「私はそうは思わないね。あんた、お嬢様と逃げるべきさ。」
と言って魚を置くと、カウンターの向こうにずずずと椅子を持ってきて腰を下ろす。

「婆には相談していないぞ。」
ぎろりと睨みながら言うと、婆はあんた判ってないね。
と言いながら逆に椅子を引きずって近づいてきた。

「お嬢様はあんたの事を好きなんだろう?だったら連れて逃げるべきさ。」
「そんなもの直ぐに捕まる。」
「捕まってもさ。例え一日でも惚れた男に連れられて全てを捨てて逃げる。女冥利に尽きるじゃないか。」
婆はうっとりとしている。

「身軽な婆とは違うんだよ。大体婆を誰が連れて逃げるんだ。」
私がそういうと、婆は憤慨したように声を返した。
「なんだい、これでも昔は横丁小町と言われてたんだからね。
 店が終わった後は私を誰が誘うかで何人も争ったもんさ。」

まあまあ、とそこに年かさの男が割って入る。
「まあ、それはどうでもいい。問題はお前がどう思ってるかさ。」
「私が?」
声を返すと、男は頷いた。
「お前がお嬢様に惚れてるなら、連れて逃げるのもいいさ。そうじゃないなら一人で逃げたっていい。
まあえらく美人のお嬢様じゃないか。惚れてるも惚れてないもないだろうがな。」

「旦那様は恩人だ。そのお嬢様に美人も惚れてるも惚れてないもない。」
意味は違うが同じような言い回しで言って、わたしは男を睨んだ。

「恩人も何も旦那様を嫁にくれってんじゃないんだ。お嬢様は別だろう?」

「そうはいくもんか。相談しなきゃ良かった。」
そういって私は横を向いた。
混乱していた。

私にはわからなかった。
お嬢様の事が嫌いなわけはない。
旦那様に拾われてからずっと一緒にいたけれど、
お仕えしていてお嬢様を嫌いになった事など一度もない。
私のつまらない合いの手に真面目に返事をしてくれたり、
私には判らない難しい話を教えてくれたり。
私はお嬢様が笑ってくれると嬉しい。

そしてなにより、最近のお嬢様の行為が私は嫌ではなかった。

だからそれはもしかしたら私の恋なのかもしれない。
そう思う。

でもそれはそれとして、
結婚やなんやかんやとなるとどうなのだろうか。とも私は思う。
それが恋として、立場を超えてまで成就させなければならないものなのだろうか。
お嬢様が私の事を好きとして、それがずっと一緒にいたからという理由だとして。
そうなのだとするならばお嬢様には許婚の方の方が適任だと思えてならないのだ。

結婚して、それから時を重ねて仲良くなる。
そういう夫婦の方が普通だろう。
それならば今、仲が良いからといって無理やりに身分の低い私と条件の整わない結婚などをして、上手くいくのだろうか。
私には最低限の学しかないし、上流社会の何たるかはわからない。
お嬢様はこちらの事は判らない。
それは深くて越えられない谷であり、高くて越えられない壁だ。
それより条件の合った相手とゆっくりと恋を育まれるほうが、お嬢様には適していると思う。
お嬢様が許婚と結ばれたら、私は喜んで祝福するだろう。

でもふと頭をよぎるこういう思いを捨て去る事もできなかった。

でも私を選ばれたら、私はどうするべきなのだろうか。と。

昔の事を思い出すと、旦那様に拾われた頃からずっと
私は少し年下のお嬢様のよき遊び相手でいられたと思う。
遊んであげていたようで、遊ばれていたりもした。
しかしずっと傍にいた。これからもそうであればいいと思う。
まさかお嬢様が夫婦という関係を望むなどとは思ってもいなかったが。

叩き出される、半殺しの目に遭う。そんな事はどうでも良い。
旦那様へは何か違う形で恩返しが出来るようにしても良い。

例えそれがお嬢様の勘違いでも、
お嬢様の私への好意は私には嬉しく思われる。

そう、生まれや育ち、全ての条件を無かったものとしたら。
あまりに甘美な響き故にその有り得なさは絶望的なまでに私の胸を刺すけれども。

私だって口に出すと途端に色あせてしまうこの言葉をお嬢様に伝えるだろう。
私もお嬢様が好きだ。 と。


でも私はもし艱難辛苦を超えて私と一緒になったとして、
それから生きていく、そして生きてきた場所の違いに気づくお嬢様を見たくはなかった。
そうなった時、華やかなお嬢様の笑顔は、
深く、暗い絶望という名の色に染まると思った。

先行きの事を考えると不安になる。
何処となく屋敷の門が遠い物に思えて、私は溜息を吐いた。


  
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by obtaining | 2006-02-23 10:06 | document

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